新国立競技場の建設現場で働いていたスタッフが過労自殺するという、大変不幸な事態が発生しました。
まさに国として「働き方改革」というお題目を唱えている最中の、国の事業に関わる現場での出来事。
…にもかかわらず、このまま風化されていってしまうのでしょうか。
中身はこんな感じ
「新国立」「電通」だから話題に…おそらく「氷山の一角」
2020年の東京オリンピックに向けてのインフラ整備のひとつ、国立競技場の建て替え。
そもそも費用面やら何やらで着工が遅れたために、急ピッチで工事を進めているであろうことは明らかです。
今回の事が無かったとしても、現場はもちろん、工事に携わっている方々にとっては全く工程に余裕のない中での、緊張感が満ち溢れた作業を強いられていることは誰にでも推測でき、ただ敬服するばかりです。
2016年末頃にニュースになった電通の女性社員が自殺した件もありましたが、マスコミ側からしてみると、取りあげるには恰好の材料として報道されているかのようにも見受けられます。
広告業界最大手の電通の、また東京オリンピックに向けての新国立競技場の建設現場の…。
このふたつの「ビッグワード」があるからニュースとして取り上げられていますが、実際にはどうなんでしょうか。
ニュースとして取り上げれない、話題にはなりずらいながらも同様の事態は恐らく数多く発生しているのではないでしょうか。
「残業時間」ばかりが注目を浴びがちも、時間の問題?
電通の女性社員の際は「残業時間105時間」、今回の新国立の現場監督だった男性社員については「残業時間200時間超」という、この「残業時間」の部分ばかりが注目を集めてしまっているような風潮には違和感を感じます。
ある意味、仕事の「大変さ」、「過酷さ」を表すモノサシとして最も伝わりやすい、業種、職種によらず誰にでもイメージをしやすい指標として都合よく持ち出されているだけではないか、というような疑問も感じます。
それに付随して「過労死」や「過労自殺」などというワードも使われています。
確かに、「残業時間200時間」というのは尋常ではありません。
単純に30日で割っても6.7時間、25日で割っても8時間…これが「残業時間」ですからね。
でも、もしかしたら、本人たちが「つらい」と感じていたのはこの「時間」だけではなかったかもしれません。
それはもう恐らく、というか間違いなく、「体力的」に限界を超えていたことは確かでしょう。
しかし、業務内容からくる「精神的」な部分にも、もう少し着目されてもいいのではないか、とも見受けられるわけです。
「忙しい」人は「定時」に帰ってはいけないか?
以前に当ブログ内でも記事にしましたが、いまだにこんな質問を受けることがあります。
「どう、最近は忙しいの?」
…「忙しいですよ!」
「何時頃帰れるの?」
…「定時に帰っています!」
「・・・」
これはもう、こちらサイドとしては、「社交辞令にしてもまたその質問かよ!」という心境。
もっと言えば「他に聞くこと無いのかよ!」という思いを持ちながらも、とりあえず当てつけのつもりでの返答なわけで。
正直、「アホか!」とも思っています。
「忙しい」=「残業」ですかね?
いまだにはびこる「忙しい」=「残業」…違うだろ!
そもそも、「忙しい」とは何ぞや?
…みたいな、どんどん訳の分からない方向に行ってしまいそうにもなりますので深入りはしませんが、ちょっと言い方を変えると、「残業」が少ない人は「忙しくない人」なんでしょうか。
もちろん、そんなことはありませんよね。
例えば、同じ仕事量でも「忙しい」と感じるか「忙しくない」と感じるか、というような個人差もあるでしょうし、その仕事量を既定の時間内でこなせるか、タイムオーバーしてしまうか、という違いもあります。
何はともあれ、「忙しい」=「残業」的な考え方、勘弁してほしいものです。
「残業時間」を減らすことではないはず…「働き方改革」とは?
今回の新国立競技場建設現場、そして電通での不幸な出来事。
そして話題として取り上げられないまでも、潜在的に、日常的に、今もどこかで起きているであろう似たような事例。
彼らが置かれていた、そして今置かれているのは、私たちの想像をはるかに超えた過酷な状況であろうことは推測できます。
しかし、ただ単に、表面的な「残業時間」だけが主に着目されて、それ以外の部分の過酷さが置き去りになってしまうようでは、同じような不幸を繰り返してしまうのではないかと懸念されます。
お題目で唱えている「働き方改革」。
「プレミアムフライデー」や「時差Biz」もいいですが、もう少し「働き」の本質的な部分にも着目、改善していく必要があるようにも思えます。
『残業時間だけがモノサシ?「働き方改革」以前の精神的な「過労」とは?』
を最後までお読みいただきありがとうございました。では。